
とても長いです。
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祖母の逝去から葬儀、相続手続きまでの詳細な記録と感謝の思いが綴られています。
●治已逝去記録:2022年9月2日
- 祖母は99歳で逝去し、家族が看取りを行った。
- 診察時に呼吸がほとんど止まり、医師が看取りを提案。
- 家族が集まり、祖母に最後の言葉をかけた。
- 葬儀社と打ち合わせを行い、スムーズに手配が進んだ。
●治已逝去記録:2022年9月3日
- 孫が喪主を務め、葬儀の準備を進めた。
- リストを作成し、手配を効率的に行った。
- 祖母の納棺に立ち会い、感謝の気持ちを込めた。
- 通夜は家族葬として温かい雰囲気で行われた。
●治已逝去記録:2022年9月4日
- 葬儀が行われ、家族が集まってお別れをした。
- 祖母の顔に触れ、感謝の言葉を伝えた。
- 骨上げを行い、祖母の遺骨を大切に扱った。
●治已逝去記録:2022年9月5日~
- 役所の手続きに奔走し、必要な手続きを迅速に行った。
- 祖母の相続手続きがスムーズに進んだ。
- 行政手続きの簡略化を求める意見が述べられた。
●瀬本治已(セモトハルミ)総集編
- 祖母の生き方や価値観が自分に影響を与えている。
- 祖母は大正生まれの99歳で、家族に愛されていた。
- 祖母の影響を受け、尊敬し続けている。
治已逝去記録:2022年9月2日
治已逝去記録:2022年9月2日
病気ひとつしない健康な人だった。が、ここ一年くらいは日中も寝ている時間が増え、食事回数・量が激減。栄養不足・免疫低下も心配になってきたので、かかりつけ医に『訪看をつけたい』旨相談することにした。祖母の月イチ定期受診に、施設長・施設の介護士・ケアマネ・家族(私)がぞろぞろと同行したのが9月2日の朝のこと。受診時は施設から祖母を連れてきてもらい、私はクリニック(待合室)で合流する。車椅子に座ったまま眠っているおばーさまと手を繋ぎ、介護士さんと話しながら診察を待つのも恒例の風景。
看「瀬本さ〜ん、診察室どーぞ〜」
私「おばーさま、順番来たよ〜、起きてー」
介「あれ?瀬本さん!息してる???」
全「えぇぇーーーっ!?」
かかりつけ医の院長先生がすぐに診察室から出て来られアレコレ確認している。
私が握ってる手はいつもどおり温かい。意味がわからない。思考がついていかない。
年に一度、院長先生とACP人生会議をしていた。元気だった頃の祖母自身も、私が引き継ぐ前に家族代表だったパパ(義理の息子)も、私(孫)も、『延命行為はしない』と院長先生とも方針共有していたので、
医「人工呼吸や心臓マッサージはせず、このまま看取りましょう。」
私「『痛い』とか『苦しい』とかはないんですね?それだけは避けてあげてください。」
医「脈も呼吸もほとんど止まりかけています。眠っているのと同じ感じです。」
私「家族を呼ぶ時間はありますか?」
医「はい。一度このまま施設に戻って待っててください。お昼までにそちらへ行きます。」
まず、今春仕事を辞めた(自宅にいるであろう)妹1号=次女に電話で知らせ、福岡在住だけど鳥栖まで通勤している妹3号=四女への連絡をお願いした。続いてママのサ高住へ連絡して、すぐに出かけられるよう支度をお願いした。幸い次女宅とサ高住が近く、ピックアップしてもらってママと3人で施設へ。小一時間で四女も駆けつけた。
私「先生が『声は聞こえてる』って言ってたよ。ママ、おばーさまにお話ししていいよ。」
母「おばあちゃぁ〜〜〜ん!」
娘+孫3人でおばーさまを囲み言葉をかけ続けた。繋いだおばーさまの手はまだ温かい気がした。スタッフさんが見せてくれた個人のスマホにはおばーさまが元気だった頃の姿もたくさん残してくれていて、写真にまつわる思い出話を聞かせてもらったりしながら、かかりつけ医の到着を待った。
医「午前11:30。老衰です。」
親族LINEグループ(義弟たち)へおばーさまの逝去を報告。
互助会に入っていた葬儀社へ連絡し、おばーさまを施設から若宮斎場へ移送。(若宮は仮通夜の9/2だけ)
ママをサ高住へ送り届け、お寺さんへ連絡。
葬儀社の担当くんとの打ち合わせはスムーズだった。祭壇や棺や骨壷、会葬礼状や返礼品、スタンド花など、パンフレットを眺めながら決めていく。「じぃじのときはどれやったっけ?」「これもパパと同じがいいね」「この返礼品がおばーさまっぽくない?」サクサク決まっていく。慣れ、恐るべし。
長女・次女・四女で枕経までおばーさまと過ごして、9月2日終了。
治已逝去記録:2022年9月3日
治已逝去記録:2022年9月3日
怒涛の週末スタート。(9月2日〜3日は徹夜)
喪主のママ(治已のひとり娘)は言葉をうまく話せない(失語=脳梗塞後遺症)だけでなく車椅子介助が必要な要介護者につき、孫1号の私が施主を務めなければならない。そして妹に協力を仰ごうにも、おばーさま(要介護5)とママ(要介護4)のことがわかるのも私だけなので、説明や指示をする時間があれば自分で手配するほうが早いという状況。
ヌケやモレを軽減すべく、まずはリストづくりから着手した。
【通夜・告別式】と【おばーさま&ママ】と【自分】の3シートを用意して、思いつくことをメモしては済んだものからチェックを入れていく…をひたすらこなすことにした。
三女に飛行機代をPayPay送金し、おばーさまの遺影写真を選んで葬儀社の担当くんへメール添付送信。御布施・御車代・御膳料・御佛前…等の表書き、喪服・念珠・現金ほか一式準備してたら空が白々と…。
施設のスタッフさんたちと親しくなっていてよかった。残置物や死亡診断書の支払いなど気がかりなことも「こっちでわかること・できることはやっておきます!後回しにできることは那津子さんが落ち着いてからで大丈夫です!」の言葉に甘えてお任せすることにした。介護サービス関連はケアマネMさんがすべて対応してくださるので、おばーさまに関する私の直近任務は予約していた外来受診のキャンセル連絡のみ。
ママのほうがいろいろある。デイサービスや訪問リハビリへお休みの電話連絡を入れ、サ高住へは入浴介助・お茶補給・食事時間変更の依頼、喪服の着替えタイミング、タイムスケジュールなどを申し送り。
一通りの電話連絡を済ませ、ママのところへGO!
彼女はゆっくり話して、大きな字で必要な単語だけをメモしてやれば、だいたいのことは理解できる。
おばーさまと少しでも長く一緒にいたいだろうけど、「ナッコがママの面倒をみられない時間はココにいてもらえるほうが助かる」と説得して、ママには夕方の通夜前までサ高住で待機してもらった。
昼過ぎには千葉から妹2号=三女も到着し、孫全員(私たち姉妹4人)で湯灌に立会わせてもらった。
納棺師さんに手解きを受け、お世話になった52年分の感謝の気持ちを込めておばーさまの体を清めた。
仕上げのお化粧が済んだところで、
納「おいくつでいらっしゃいましたか?」
私「99です。」
納「お肌のキメが細かくて、とてもそんなお歳には見えませんね。」
妹「高級化粧品使いよったもんね。」
妹「肌、メチャクチャきれいやったよね。」
納「お綺麗なのでファンデーションはほとんどしてません。チークをちょっとだけ。」
全「キレイね〜。」「ホント綺麗!」
無事、納棺を済ませ、通夜・告別式会場の松崎斎場へ。私と次女はサ高住へママのお迎え。
パパのときと同じ、白い花を基調とした祭壇。両脇には『孫』と『ひ孫』からのスタンド花。施設の方にお願いして、家族からおばーさまへ贈った手紙や色紙を届けてもらい、それらもディスプレイしてもらった。
姉妹で手持ちの写真を出し合い、通夜式・告別式の前後の時間におばーさまとの思い出の数々をプロジェクターで流してもらった。私たち四姉妹が幼い頃の写真あり、少し大人になってからの(今となっては古いファッションに身を包んだ)甘酸っぱい写真あり。母親姉妹の若かりし頃のスライドショーを見て姪甥ッコーズがゲラゲラ笑うシーンがちょいちょいあって、お通夜が始まるまでのホールは和やかな雰囲気。
おばーさまの関係者といってもお友達はとっくに天国在住、施設スタッフFさんとケアマネMさんはコロナ感染拡大防止のため「お通夜の前に少しだけお顔を見せてもらいに行きますね。」とのことで、通夜は身内だけで営んだ。喪主席にママ、その隣に私と次女。その後ろに次女ファミリーと私の友人。中央の通路を挟んで反対側に三女と四女。その後ろに四女ファミリー。家族葬ならではのコンパクトであたたかい通夜式だった。ご導師様は聖徳寺のご住職さん。法名は長寿を讃え『釋寿楽』とつけてくださった。
通夜式も終わり、私と次女はママを送りに。その間、三女・四女に通夜振る舞いの買い出しをお願いした。
「精進料理じゃないと…」と気にする人がいない新田家は、食べ盛り・育ち盛りの姪甥ッコーズのリクエストに応えガッツリ肉食。日付が変わる頃までおばーさまを囲んで思い出話に花を咲かせた。
義弟たちは子どもたちを連れて帰途につき、私たち姉妹はおばーさまと一緒に最後の夜を過ごした。
順番にシャワーを浴び、布団を並べ、フェイスパックしながら思い出話の続き。
どこへ連れて行ってもらっただの、してもらったアレやコレが嬉しかっただの、半世紀分の懐かしい話で盛り上がり、遠い記憶に想いを馳せ、眠りについた。
治已逝去記録:2022年9月4日
治已逝去記録:2022年9月4日
いい天気だった。朝から暑い日だった。
おばーさまと孫4人で御斎を済ませ、昨日同様にママを迎えに行った。次女の車は車体が高く、ママを一度シートに座らせたあと私が母を跨いで抱きかかえ深く座り直させなければならないので、平服・スニーカーが必須。斎場に戻りママのアテンドを三女・四女にバトンタッチして、急いで喪服に着替えた。
介助で抜けるわけにいかない私、排泄対応ができない妹たち、のことを気づかい、サ高住の介護士さんが長時間安心バージョンのオムツにしてくれていた。臨機応変に対処できる・機転がきくスタッフさんがいるってどれだけありがたいことか。トイレ介助の心配ゼロで施主に専念できて本当に助かった。
葬儀は若さんがお勤めしてくださった。娘(ママ)、孫(私たち姉妹)、次女・四女の夫、ひ孫代表で四女の長男、私の友人Yさんが参列。(姪ッコーズは個々の予定あり)
読経の途中、『もうおばーさまとおしゃべりできないんだ…』『もう外来同行することもないんだ…』『もう新しい服も下着もパジャマも届けることがないんだ…』と思うと嗚咽が止まらない。パパが他界してからの4年、特に最後の半年は頻繁におばーさまに会っていたので、私の日常になっていたイロイロが突然なくなってしまう儚さ・寂しさが込み上げ、「泣くのはこのお経が終わるまで。次は全部(行政手続きや納骨や相続など)が終わってから。」と自分に言い聞かせて、数分間だけ思う存分涙を流した。
お別れの時間が刻々と迫ってくる。
安らかに眠っているおばーさまの顔に触れ、「いっぱいありがとね。パパによろしく。ママのことは任せて!」とお別れの言葉・約束を伝え、みんなで棺へお花や手紙を入れた。私も最後の最後までたくさん語りかけたりお花を入れたりしたいけれど、それは娘のママのほうが“もっとしたい”ことで、そのフォローに回らなければならない切なさ。ママが一番傍で一番たくさんおばーさまとお別れができるよう最善を尽くすことが私の役割。いろんな気持ちがゴチャ混ぜになる。涙が溢れる。
出棺の準備を待つ間に、若さんへお礼のご挨拶、家族みんなにはこのあとのことを申し送り。
男性陣が棺を運ぶ。ひ孫6号も立派に役目をこなしていた。
ママに代わって出棺の挨拶をして、私はおばーさまと霊柩車に乗った。
「火葬場までは行かない」というママの送りは次女・三女に任せ、ほかのみんなは自家用車に分乗して、火葬場で再集合することにして斎場をあとにした。
北筑昇華苑へ向かう霊柩車の助手席。窓に映る景色、膝の上の位牌…、パパのときを思い出す。悲しいんだけれど一仕事終えた安堵感に包まれる時間。運転手さんとの静か過ぎず煩わしさもない言葉のやり取り。もしかしたら私の記憶以上におばーさまの素晴らしさを熱弁していたかもしれない。
ほどなく到着。
告別室に案内されたところで次女・三女も間に合い、最後の最後にもう一度おばーさまの顔を見てお別れした。高い天井、火葬炉の大きな扉がいくつも並んでいるホールに進む。向こう側が1000度もある空間とは思えない冷んやりとした空気感も記憶に新しい。
おばーさまの棺が扉の向こうに消えていった。
控室に案内され、一言挨拶して献杯。義弟たちからの「おつかれさま」が身に沁みる。
精進落としの折詰をつまみながら、しばし歓談。収骨室へのアナウンスを待った。
白くて綺麗なお骨だった。太もものあたりに骨折のときの金属プレートが残っていた。骨の説明をしてくださった職員さんも「大正生まれとは思えないほどご立派なお骨です。」とおっしゃっていた。
心を込めてみんなで骨上げし、パパとお揃いの骨壷に収めた。
次女夫婦とは火葬場で解散。夕方の便で千葉へ戻る三女と、四女ファミリーと帰途に着いた。
住民票だけで一度も暮らしたことないけれど、勇さんもパパもいる我が家へおばーさま帰宅。
仏壇の前に座卓を出し、骨壷、お位牌、遺影を並べ、後飾り祭壇を作った。
たくさんの思い出、明日からの役所回り、ママの心のケア…。
頭の中の全部を一旦横に置いて、今夜はゆっくり寝よう。
最期まで始末のいい人だったな…。
治已逝去記録:2022年9月5日〜
治已逝去記録:2022年9月5日〜
おばーさまの通夜・葬儀が週末だったため、翌月曜日から役所の手続きに走り回った。
次女も手伝ってくれたので、届出は初日だけでおおかた済ますことができた。
パパのときに知ったこと・やったことの再現。しなきゃいけない手続きはわかってるし、手間取った経験はむしろリベンジ!くらいの意気込みでやっつけていく。
のつもりが、早々に「えぇー!?」という事態に直面した。パパのときと違うこと第一弾。
パパをはじめ新田家の祖父母も眠っている共同墓所“ささぐりの郷”。おばーさまの逝去を報告するために管理委員会へ電話した際、【納める骨壷は三寸まで/それより大きい骨壷の場合は移し替え代30,000円/移し替え時に入りきれなかった骨は粉骨して新設した合葬墓へ】ということが(パパが他界した翌年に)決まったと告げられた。金額もさることながら、ルール改定があった時点で知らせてくれなかったこと、『折角パパとお揃いの骨壷にしたのに…』『みんなで心を込めて骨上げしたのに…』という想い、電話口の男性のどうでもいい自慢話も横柄な口調も気に触る。(どれだけパパが組合に貢献したと思ってんだ!)
でもまぁ腹を立てても仕方ない。私(家族)が納得いくカタチでなんとかおさめなければならない。
妹たちと相談してこちらで三寸の骨壷に移し替えて納骨することに決め、わすれな草の模様が入った可愛らしい骨壷を新たに購入した。ネットで調べたり電話で問い合わせたりして、福津にある業者へ粉骨を依頼し、三寸の骨壷に収め直してもらった。(五寸の骨壷は私が譲り受けた/パパとお揃い)
パパのときと違うこと第二弾。区役所と年金事務所ではできない行政手続き。
“戦没者の妻”だったおばーさまは、総務省(恩給)と厚生労働省(戦没者弔慰金国債)への連絡+手続きも必要だった。いただけるものはキッチリいただくぞ!ということでどちらも申請。
恩給は1回分だけママの口座へ支給されて終了。弔慰金(残り3回分)は国庫債券の記名(おばーさま→ママ)と、受取郵便局(名島→香椎御幸)を変更手続きした。(車椅子のママ本人を連れて行きやすい!)
パパのときと違うこと第三弾。相続関連。
パパが亡くなった当時、三女が海外にいたので何かと面倒で時間を要した手続きも、今回は法定相続人がママ1人だけなので、まず遺産分割協議書が不要。「ちゃちゃっと済みそうだな」と楽観していたけれど、さすが大正生まれ。おまけに結構複雑な生い立ちで、戸籍収集に思いのほか時間を費やした。
まずはわかるところから…と、ママの戸籍(パパとの婚姻)からおばーさまの本籍地をひとつ確認。パパのときのように本籍地巡りの旅に出たかったけれどママの介護があるのでそうもいかず、今回は郵送請求することにした。サイトからダウンロードした申請書と定額小為替と返信用封筒を送り、戸籍の到着を待つ…を繰り返す。結果、高知市・築上郡上毛町・中津市・北九州市の4ヶ所から取り寄せた。集めた戸籍謄本8通からは『ややこしい人生をおくった人のようだ』という感想しかない。(時間がないので解読はいずれ)
続いて法廷相続人情報一覧図の作成。パパのときは司法書士さんに依頼したけれど、今回は不動産もないので自分でトライしてみることにした。集めた戸籍とフォーマットに従って作った一覧図、その他必要書類を持参して法務局へ。翌日早速ダメ出し電話があり「住民票どおりの記載でお願いします。」とマンション名の未記入を指摘されて再提出(一発OKしたかった)。それでもおばーさまの逝去からひと月半で写しの交付まで漕ぎつけた。一覧図完了の連絡が四十九日法要(納骨)前日だったので、墓前にその報告ができた。
香典返しの手配、お世話になった方々へのお礼状、挨拶回り…。と併行して、いざ!相続手続きに着手!
どこも最初は「(相続人)ご本人にお越しいただかなければ…」「(相続人の)委任状がなければ…」とマニュアルどおりの手順説明。その相続人が歩行や書字が困難な場合「どーしろってゆーのよ!」と毒づきたくなるけれど、そんなときこそスマートに、ぐうの音も出ない手を打ってやるぞ!という気になる。
ママは字を読んだり書いたりがほとんどできないけれど[相続人の娘が代筆する]ことさえ認めてもらえればなんとかなる。ママと私の続柄を証明し、私自身の本人確認書類が公的なものであればクリアするに違いない。車椅子にちょこんと座ったママを連れ、【印籠(法廷相続人情報一覧図の写し)】と【伝家の宝刀(ママの障害者手帳・私の戸籍謄本・私のマイナンバーカード)】があれば怖いものなし。ゆうちょ銀行は少し時間がかかったけれど、おばーさまの資産がママの口座へすべて振り込まれ、相続関連コンプリート!
入金(還付)待ちのものもあるけれど、こちらから申請・請求しなければならないものは全て済ませた。
相続手続きするたびに思うけど、行政に一言物申したい。マイナンバーカードを推進するなら(戸籍収集を含む)死亡関連手続きの簡略化・申請書フォーマットの統一をぜひ検討していただきたいものだ。
兎にも角にも、年内に済ませられてホッとした。やっと、ゆっくり、おばーさまを偲ぶことができる。
瀬本 治已(セモト ハルミ)総集編
瀬本 治已(セモト ハルミ)総集編
「尊敬する人は?」と誰かに問われることがあれば、私は「瀬本治已」と即答する。
母方の祖母で大正生まれの99歳。
すべてにおいて彼女には敵わない。私のスーパーグランマ、最も尊敬する女性だ。
今年に入ったくらいから、おばーさまが“超・省エネモード”になっていた。日中も寝てる時間が増え、車椅子もリクライニング仕様の高級車にグレードアップした。すこ〜しずつ、なんとな〜く、お別れがそう遠くないような、そんな感覚がなくもなかった。ママにも妹たちにも(当たってほしくない私の直感を、私なりに)「会えるときに会っとかなね。」と伝えていた。
おばーさまとママはそれぞれのケアマネさんと月イチで面談がある。6月の祖母の面談で“足に褥瘡ができている”ことを知らされた。それまでお世話になっていた町の皮膚科医院から「総合病院の皮膚科に転院してほしい」という申し出があり、転院以降は総合病院受診の度に同行した。
誕生月の7月、祖母が暮らしている施設+会場のホテルと綿密に打ち合わせ、大頭巾とチャンチャンコも用意し、ひ孫まで全員集合しての【百寿祝い】を企画したのも、私の中で『(数え歳でも)やるなら今年!』と強く感じてのことだった。直前になって施設側から欠席連絡が入り(コロナ感染を懸念)お祝いは叶わなかった。千葉から三女ファミリーも呼び寄せていたので、【新田家親族会】に名称変更しておばーさま抜きで会食は決行した。
コロナは本当に恨めしい。ママの入院時に勝る『コロナのバカちん!』な結果となってしまった。
ひ孫たちに(生きている)おばーさまと会わせたかった。心底悔やまれる。
4年前にパパが逝去したとき集めた戸籍で、私には(というか父にも祖父にも)【新田の血】が1滴も入っ
てないことが判明した。今回集めた母方の戸籍でも【瀬本の血】が1滴も入っていないことがわかった。どちらも名前(家)を継いでいるだけだった。
まぁ、血統や苗字はともかく、私の成分表?構成比?は
●治已:50%
●パパ:49%
●ママ:1%
と自己分析している。
隔世遺伝に加え、おばーさまがやっていたことを真似てる部分もあって治已率が高い。
瀬本治已。彼女を形容する言葉はいくつもあるけれど、筆頭は「カッコイイ」だ。
気丈で、几帳面で、気前がいい人だった。
そして泣かない人だった。私はおばーさまが涙を流している姿を一度も見たことがない。
ママには2つ上に姉がいたようだがママが生まれる前に他界。父親(私にとっての祖父)もママが1歳のときに戦死しているので、おばーさまは女手ひとつでママを育てた。
おばーさまにとって“孫”は私たち姉妹の4人しかいなかったけれど、おばーさまが長生きしてくれたおかげで“ひ孫”は7人。17人家族(親族)の頂点から私たちの幸せをいつも願い・叶えてくれた人だった。
おばーさまとパパは“実の親子(ママのほうがお嫁さん)”と思われるほど仲が良かった。
晩年はおばーさまのお世話を[する側]にいたけれど、それはほんの数年の話で、長い間、本当に長い間、おばーさまに[してもらう側]だったパパ。母親(父方祖母)を早くに亡くしたパパは、おばーさま(母方祖母)を本当のお母さんのように慕っていたし頼りにしていた。
百貨店でコートを買ってもらったり、旅行に連れて行ってもらったり、高級料理(とにかくいろいろ!)をご馳走してもらったり、孫同様(孫以上?)に息子として甘えさせてもらっていた。そういう親子(母/義理の息子)関係がとても羨ましかった。(妹の夫たちとママが、パパとおばーさまのような関係だったら最高なのにな…脳の病気がなかったらできてたのかな…とつい考えてしまう。)
私自身も『おばーさまに可愛がられている』『おばーさまに贔屓してもらってる』と自負していた。
もちろん《孫1号》というポジションは大きい。歳の分だけ機会も多かったし、関わりも妹たちよりは深かったと思う。それは《長子》だったこともあるけれど、夫や子どもがいない分の自由だったり、孫代表という責任感だったり、いろんな要素が重なり、結果、一緒に過ごした時間が一番長かった。
勇さん(母方祖父=治已の夫)のお墓参りにママが同行しなくなってからは、私がおばーさまにお供してついて行くようになった。ハイヤーの運転手さん用の冷たい飲み物まで用意された“お墓参りセット”の荷物持ち係。帰りに、中津駅近くの鬼太郎(老舗料亭)に寄るのがお決まりのコースだった。
お盆には私の誕生日がある。同じ誕生日の姪が生まれるまではかなりの確率で忘れられがちだったけれど、おばーさまはお墓参りにくっつけて必ず祝ってくれた。
治「何がいいかね?好きなの頼みなさい。暑かったろ。冷たいの(ビール)は?」
那「んじゃ、若鶏の唐揚げ(鬼太郎名物)と生!」
毎年変わらないやり取り。そして至福の時間。八面山金色温泉まで足を伸ばしたこともあったっけ。
「さすがに独りでおいとく(一人暮らしさせておく)のも…」と両親が心配し、おばーさまを門司港から貝塚へ呼び寄せた頃、私は起業して貝塚の隣町に事務所を構えていた。門司港にいた時も「ファックスの用紙が切れた」と電話があれば飛んで行っていたけれど、貝塚に転居してきてからは仕事帰りや休日にちょくちょく顔を出せるようになった。
数年後には名島の両親宅で、そのまた数年後には実家近くの施設で、おばーさまが暮らすようになった。
同じ話を何度もするようになり、とうとう私が孫だとわからなくなってからも、おばーさまは私のことを第六感みたいなもので認識してくれてる気がしていた。実際、施設のスタッフさんたちも「那津子さんが来ると覚醒する。」と不思議がっていた。そしてそれがとても嬉しかった。
私は整理整頓術や器用な手仕事を褒められたとき、「節子の娘じゃなくて、治已の孫やけん!」と言う。なんなら豪語する(笑)。
おばーさまは綺麗好きで掃除好き。整理整頓がとても上手で、モノがいつも同じ場所にしまってあった。
チラシで作ったクズ入れの箱も、頂き物の包装紙も、トイレットペーパーの端っこの三角も、読み終えた新聞も、折り畳み傘も、タンスにしまった衣類も、竿の隅に掛けた雑巾でさえビシーっと折り目がついていた。物を大切にする人で、何年も同じハサミを丁寧に研いで使っていた。家具も家電も新品と見紛うほどいつもピカピカだったし、どの部屋もチリひとつ髪の毛1本落ちていないお掃除マスターだった。
真面目で几帳面な人でもあった。
年賀状・お中元・お歳暮・謝礼はきっちり送る。
家電の裏側には購入年月日が、冷蔵庫に並んだ卵には賞味期限が、書いてあった。
タンスの底に敷いたチラシ、防虫剤の匂い、伝線しないようにと小さなポリ袋に1足ずつ分けて収納してあるストッキング…。どの引き出しを開けても同じ幅にきちんと畳まれた洋服が整然と並んでいた。
「ホントにママのオカーサン?」と疑い、「だって全部おばーちゃんがするっちゃもん。」と自分の掃除嫌いを棚に上げるママと笑い合った。私はおばーさま派・おばーさま似でよかった(ビバ、隔世遺伝!)。
同年代のご近所さんを引き連れて、めかり公園まで早朝ウォーキングをしていた。新聞の天声人語を書き写すのも日課のひとつだった。頭と体を動かし続けることを怠らない人で、いつも背筋をピンと伸ばし、せかせかと動き回っていた。毎朝仏壇に手を合わせ、祖父の50回忌まで自ら出した。
おばーさまとの美味しい思い出は数え切れない。
私たち姉妹が幼い頃から高級フレンチを食べに連れて行ってくれる人だった。年季の入ったぬか漬けも最高に美味しかった。ちゃんこ鍋、鰻、鱧、鯉…「初めて食べた!美味しい!」の機会をたくさん与えてくれた。“うぐいす豆”と“地鶏の炭火焼き”はおばーさまと私共通の好物で、私へのお土産の定番だった。
地図や時刻表が読める人で、旅行好きだった(国内限定)。地名の記憶力、コースや段取りも抜群で、友達を引き連れてあちこち出掛けていたし、私たちファミリーもいろんなところへ連れて行ってくれた。
普段は慎ましやかな生活を送っているけど“使うところで使う”気前のいい人だった。化粧品も洋服も百貨店の高級品。友の会の上顧客リストに名を連ねていて、奮発するときの潔さといったら!
旅行はもちろん、ちょっとしたドライブでも同行者にアレコレ奢り、お土産をドッサリ買って帰っていた。デパ地下の銘菓、4人お揃いの手編みのベスト、季節のフルーツ、キャラクターグッズ…。子沢山・薄給・多忙の両親では到底叶えられない贈り物が、おばーさまからたっくさん届いた。私たちだけでなく、三太(実家の犬)にも必ず唐揚げを買ってきてくれた。特別な時間、特別な体験にはいつもおばーさまがいた。
クリスマスの忘れられない思い出がある。小学5年か6年だったと思う。
「24日に取りに行きなさい」と渡された小さな紙。西鉄電車に乗ってクリスマスケーキを受け取りにおつかいしたことがあった。華やいだ雰囲気、賑やかな雑踏、私が住んでいる町よりちょっと都会で、子どもだけで行くことは禁止されている校区外の洋菓子店。店先に山積みされたケーキをいそいそと買って行く大人たちの列に並び、自分の番がまわってきて引換券を店員さんに差し出した。
店員さんが店の奥へと消えた。すごく不安だった。が、次の瞬間、特大サイズのケーキの箱を手に店員さんが戻ってきた。「新田さまですね。重たいですから気をつけて」と手渡されたときの喜びといったら!
小躍りしたい気持ちをおさえ、周囲の「すごぉ〜い!」の声をまとってお店を出る誇らしさ。今でも鮮明に思い出せる。電車に揺られて帰る道中は、嬉しさと、ケーキを落として崩さないようにという緊張でいっぱいだった。すれ違う知らない人たちからも「気をつけて」と笑顔で声をかけてもらった夕暮れだった。
そんな、いろんな、スペシャルな、思い出をたくさんくれたおばーさま。「おばーさま(祖母)がおばーさま(瀬本治已)でよかった」とずっと感謝している。ソックリ同じことはできないまでも、姪や甥に「ナツネがオバチャンでよかった」と思ってもらえたらなと【目標:治已】が私のモチベーションになっている。
おばーさまは「人様に何かしてあげようなんておこがましい。人様に迷惑をかけずにいれれば十分。」と常々言っていた。できるだけ人に頼らず、自分でできることは自分でやる。『人様に迷惑をかけない』ことを美徳とし、貫いた。人に優しく・自分に厳しい。そしてちょっとだけ私にも厳しかったのは『自分に似ている・私のようになってほしい』と思ってくれていたからかもしれない(と思いたい)。
なんだかんだ言っても人の世話を焼き、大勢の人に感謝されていたおばーさま。
やっぱり最高にカッコイイ! 貴女の孫に生まれて幸せです。
私は[ほめてもらって伸びたい子]。ほめてくれる人=パパがいなくなって4年。私の【公】の割合が、仕事:介護=1:9になってからも4年。「見て!」「聞いて!」の気持ちが激減し、FacebookやInstagramに投稿することが以前よりうんと減ってしまった。パパからのコメントをもらえない投稿は空虚感しか残らない。そもそも投稿したいネタもあまりないし、投稿する余裕もない。
更年期も重なって疲れがなかなか取れず、【私】の時間も、時間を捻出する元気も、若い頃のようにいかなくなった。それでも誰かと一緒のときには覇気のあるニッタでいたいし賑やかしいナツネでいたい。「明日できることも今日やってしまう」頃に比べたら「今日やらなきゃいけないことだけは今日中に終わらせよう」がギリギリだけれど、体と心を整え、ポジティブな思考・行動を心がけている(つもり)。
朝のまんまんちゃんのとき「よう頑張りよる!」「さすがナッコ!」と聞こえたことにしてる(笑)ので、おばーさま・パパ、これからも見守っててね。それと…ママの外出(外来受診)日の「移動中だけでいいので雨が降りませんように…」のお願いだけは叶えてくれると助かりまーす♡︎

母娘最後のお別れ《彩苑》

火葬《北筑昇華苑》

四十九日法要・納骨《聖徳寺》

遺影に使った写真
瀬本 治已(セモト ハルミ) 1923年〈大正12年〉7月19日 ─ 2022年〈令和4年〉9月2日
父:熊澤治之助/母:熊澤トミ。大分県下毛郡中津町(現:大分県中津市)生まれ。
長女:富貴子(S16.10.17─S17.4.20)二女:節子(S17.11.3─)を授かる。
1943年〈昭和18年〉8月9日、瀬本勇(T9.9.30─S19.9.16)と婚姻。
1969年〈昭和44年〉11月14日、二女:節子が新田東彦(S17.7.1─H30.12.1)と婚姻。
孫4人、ひ孫7人。
福岡県福岡市東区名島で逝去(満99歳)。
令和4年12月16日/記録:新田那津子
